具志頭村で傷の手当てを待つ子ども=1945年6月21日

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空白の沖縄戦

 沖縄戦の組織的戦闘が終結してから69年がたった。戦没者の名前を刻む「平和の礎」(糸満市摩文仁)には毎年、一人ひとりの新たな名前が刻まれる。今も、どこで、どのように亡くなっていったのか、分からない人たちがいる。

 沖縄タイムス社は、激戦地だった具志頭村(現八重瀬町)出身者の死亡地域を落とし込んだ地図から、彼らの足跡をたどった。地図は戦没者名簿を基に、GIS沖縄研究室(渡邊康志主宰)が作成。米軍が上陸後の4月から戦闘終了の7月にかけての時系列と、具志頭、新城、後原、港川の出身字ごとの戦没地分布図を公開する。

 彼らの足取りは、沖縄国際大学の吉浜忍教授に解説してもらった。

  戦後に生きる者として、生きることができなかった声なき声に耳を傾け、彼らが残した足跡をたどる鎮魂のグラフィックとする。

断崖に掘られた壕に向けて発砲する2人の米兵=1945年6月、具志頭村与座、あるいは高嶺村与座

 1945年3月23日、米軍が上陸に備え、沖縄本島への爆撃を開始した。硫黄島で日本軍が全滅し、大本営が沖縄作戦に重点を置くと決めた、わずか3日後のことだった。26日、米軍が上陸した慶良間諸島は、すぐに陥落。4月1日には、米軍が本島中部の西海岸に上陸した。

 日本軍は、首里市を中心に主力を配備。5月には安里のシュガーローフヒル、与那原・西原の運玉森などで戦闘が繰り広げられたが、5月22日、首里戦線の崩落目前に南部撤退を決定。防衛線を、具志頭村の玻名城から八重瀬岳、与座岳、高嶺村の国吉・真栄里の東西に敷いた。具志頭村は戦場となり、住民を巻き込んだ熾烈で残酷な地上戦が6月の終わりごろまで続いていった。村の人口6315人のうち、4割以上が犠牲となった。いつ、どこでなくなったのか。1945年の4月から7月にかけて、沖縄で犠牲となった約2200人の戦没地から足跡をたどった。

1945年4月

戦没者数 116

(3月、4月では計 137 人)

米軍が沖縄本島に上陸。艦砲射撃によって住民が具志頭村で犠牲となっている。具志頭村以外で亡くなっているのは、具志頭出身の防衛隊員もしくは軍人と考えられる。

1945年4月

1945年5月

戦没者数 705

具志頭村の戦没者の特徴は、運玉森のある西原近辺でたくさんの死者が出ていることにある。4月末、具志頭村に配備されていた日本軍第89連隊の運玉森への移動に伴い、住民たちが防衛隊や義勇隊(弾薬運びなど)として駆り出され、巻き込まれた可能性が高い。

1945年5月

1945年6月

戦没者数 1018

完全に米軍に包囲された。壕に潜み、隠れ、生き延びるために必死だった。具志頭村で亡くなった人の割合は5月と似ているが、6月になると糸満が一気に増えている。日本軍は、具志頭村の玻名城から与座にかけて防衛戦を敷いたため、逃げられずに地元から離れなかった人と、糸満方面に逃げた人がいたことが分かる。

1945年6月

1945年7月

戦没者数 64

具志頭村が国に指定された疎開先は金武村だった。そのため、北部の収容所に居た村民が栄養失調やマラリアなどで亡くなっている。地元に残った住民は、玉城村の百名収容所に集まったと考えられ、こちらも栄養失調や餓死などが原因で亡くなっている。

1945年7月

目前で炸裂した手榴弾から身を守る第77師団の3人の歩兵=1945年6月

日本軍と交戦する第77師団の兵士=1945年6月

「沖縄戦最後の戦い 1945年」撮影場所・不明

 8つの字からなる具志頭村。そのうち、戦没者の多い港川、後原、新城、具志頭の字出身者に焦点を当て、激戦だった玉城村、東風平村、兼城村以南のどこで亡くなったのか、避難の道のりを追った。彼ら彼女らが残した最後の遺言からは、字周辺の海や山といった地形に命を大きく左右され、日本軍と米軍による戦闘の犠牲になった足跡が浮かび上がってきた。

沖縄本島南東部の港川で、標的が炎上している様子。戦艦ワシントンの16インチ砲による一斉射撃と空母艦載機の攻撃によって火災が生じた。新たな攻撃が行われている様子=1945年3月24日、具志頭村港川

港川

戦没者数 241

具志頭村民にとって、港川は避難の分岐点となった。港川の入り江は長く、入り江を越えて避難することは難しい。玉城方面への移動はほとんどないことがうかがえる。港川出身の戦没者は、南部の各地に分散。背景には、3月23日の米軍による空襲に加え、港川では上陸陽動作戦があったことがある。住民は目視で危険を把握でき、地元を離れていったと考えられる。米軍は当時、「港川方面に行きなさい、安全です」と投降を呼び掛けた。しかし、米軍の言葉を信用できず、糸満方面に逃げた人が戦争に巻き込まれたことが読み取れる。

港川地図
後原

戦没者数 345

 後原は、日本軍の防衛線に近い。突破して玉城方面に逃げることは非常に難しい。地元周辺にとどまろうと考えた住民が、戦没している。一方で、後原地域の特徴は糸満側にも死者が多いことだ。後原から南には、与座岳、八重瀬岳があり、山に壕があると考えた住民たちが移動していると考えられる。しかし、その周辺の戦闘は激しかったため、巻き込まれ、亡くなってしまったことが分かる。

後原地図
新城

戦没者数 370

後原と同じように、日本軍の防衛ラインを突破して逃げることは非常に難しく、住民が地元にとどまったことが考えられる。だが、違う点が一点ある。新城は、糸満の東海岸側で亡くなっている人が多い。新城からは与座岳、八重瀬岳ではなく、玻名城に向かって逃げ、今の国道331のルートを使ったのではないか。戦争では、地形が大きく運命を左右する。

新城地図
具志頭

戦没者数 265

具志頭村の中心だった字。避難壕も多い場所だった。具志頭の当時の状況を知る手がかりとして、郵便局員で大政翼賛会具志頭村の幹部、仲本稔の書いた戦時中の日記が残っている。そこには、壕を掘ったこと、軍隊に宿舎を提供したことなどが事細かに書かれている。考えられることは、具志頭には、強いリーダーシップをとれる人物がいて、住民に対し、防空壕を掘ることや逃げることに関して何らかの指導があった可能性がある。

具志頭地図
坂井八重さん

坂井八重さん(86)

具志頭村後原出身。沖縄戦当時は17歳で、後原の壕で日本兵の炊事を担当していた。沖縄戦で祖父、祖母、父、母、兄を亡くした。

高江洲千代さん

高江洲千代さん(91)

具志頭村港川出身。沖縄戦当時は22歳。日本兵と同行し、破れた軍服を縫い直した。炊事も担当。糸満市真壁で6月27日、捕虜となった。

上原正子さん

上原正子さん(77)

具志頭村安里出身。沖縄戦当時は8歳の具志頭国民学校2年生で、妹を背中におんぶし、南部を逃げ回った。

 沖縄戦時下、具志頭村民はどのような状態だったのか。「鉄の暴風」をくぐり抜けた3人が、あの頃の記憶の糸をほどいてくれた。

 港川出身の高江洲千代さん(91)は、「港川では、米軍が沖縄本島上陸する前には空襲があった。地元にとどまっていられず、住民は色んな場所に逃げていった」。後原出身の坂井八重さん(86)は「家では日本兵が寝泊まりしていた。食事も作った。4月以降は家にいられず、壕を逃げ回った。途中で弾が太ももを貫通して、今も傷が残っている」。安里出身の上原正子さん(77)は、「自宅の前に防空壕を掘ったが、空襲が激しくなって具志頭周辺の壕を転々とした。港川の海にびっしりと埋まった軍艦が見渡せた」。

 証言から、住民の足取りが見えてきた。

 具志頭村民の多くが地元に残り、4割以上が亡くなった背景には、村民が県外や北部などに逃げることができなかった史実があった。集団疎開の出発日、激しい空襲が始まり、中止となった。以後、集団疎開はかなわなかった。日本軍に避難先として指定された場所がすでに米軍に占領されていたり、壕がいっぱいだったりして、住民は右往左往するしかない現実があった。具志頭村民が戦争に翻弄された歴史の時系列をここに記す。

1945年、具志頭村

1944年米軍の沖縄本島への上陸が必至の状況となった。
1944年7月7日具志頭村は、県の命令で学童集団疎開と一般集団疎開を計画。
1944年9月8日長毛出身の学童ら50人が大分県に疎開。一般集団疎開はゼロだった。理由は、1943年12月、具志頭村は満州開拓のために先遣隊49人を軍の輸送船で派遣したが、鹿児島県沖で魚雷攻撃を受けて全員死亡したことにある。村民は海上輸送がきわめて危険であることを知っていた。本土疎開をした具志頭村民は、村長の家族6人のみだった。
1945年1月さとうきびの製糖を始めなければならないものの、各字の共同製糖工場は日本軍の兵舎に充てられた。結局、製糖は人手不足、燃料の補給もなく、空襲警報もあってできなかった。大部分のさとうきびが収穫されずに畑に残り、住民や日本兵の食糧になった。
1945年2月県は激戦が予想される中南部の住民を北部へ疎開させることを決定。具志頭村の指定疎開地は金武村で、29日、約300人の村民が疎開した。
1945年3月23日夜明けとともに米軍の大空襲が始まる。第2回目の集団疎開の出発予定が中止され、以後、村民の疎開は不可能に。空襲が日増しに激しくなり、このころから村民が壕に避難する生活が始まる。
1945年4月1日、2日米軍の上陸陽動作戦部隊が具志頭村港川の沖合に集結。港川の海岸に猛烈な艦砲射撃を加えた。
1945年4月3日日本軍は具志頭村港川への米軍の上陸に備えた具志頭村民に東風平村友寄以北に立ち退き命令。しかし、友寄付近には避難できる壕もなく、約2000人の具志頭村民は、右往左往。その中の800人以上の村民は、歩いて金武村に避難した。
1945年4月4日港川での米軍の動きは、陽動作戦であったことがわかり、1200人余の村民が夜間に集落に戻った。しかし、そのときには避難壕は日本軍が入り込んでいて、大部分の村民は新しい避難壕を探さねばならなかった。
1945年4月22日首里周辺の一般住民に知念半島への避難命令。しかし、軍と共に行動した方が安全だと思っていた住民は日本軍の後を追って、推定10万人以上が、具志頭村や摩文仁村などに殺到。具志頭村内の各地の壕には、日本軍、避難民、村民が混在し、混乱状態となった。
1945年5月31日米軍が首里を占領。日本軍は6月はじめにかけて具志頭村の玻名城、八重瀬岳、与座岳、高嶺村の国吉、真栄里に至る最後の防衛戦を敷く。
1945年6月1日軍から村長に知念村と玉城村への立ち退き命令。しかし、両村に行く途中にある港川方面には、米軍の海兵隊が配備され、桃原には小型の飛行場もあった。戦線を突破できず、立ち退きはかなわなかった。
1945年6月5日ごろ米軍は日本軍の最後の防衛戦に猛攻撃。逃げまどう避難民と日本兵で混乱状態。道には死体が転がり、ご飯も炊けない。水を汲みに行く泉には、米軍の艦砲の集中する場所であり、飲料水がなかった。
1945年6月11日米軍は具志頭と東風平村富盛を結ぶ線に進出。特に、玻名城の高地をめぐる攻防戦は熾烈を極めた。
1945年6月18日米軍は防衛線を突破し、具志頭村仲座方面の台地から、八重瀬岳南麓の線まで進出。
1945年6月23日摩文仁の軍司令部壕で第32軍牛島司令官が自決。第32軍の組織的抵抗は終わったが、具志頭村内では引き続き米軍による掃討作戦が続き、多くの日本兵が殺され、避難民が捕虜となった。

米軍が具志頭に設置した病院でうじのわいた足の傷の手当てを待つ少女=1945年6月21日

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