上陸翌日、米海兵隊の捕虜になった老人4人。足腰のきく家族を逃がし、老い先短い自分たちは住み慣れた村でしねれば本望だと動かなかった老人が多かった= 1945年4月2日
※写真説明は資料の原文を掲載しています。
1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。読谷・渡具知海岸に猛烈な艦砲射撃が開始された。
約20分間で12センチ砲以上が4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾が2万2500発が撃ち込まれ、午前8時半、ついに米軍が上陸した。
沖縄本島に米軍が初めて足を踏み入れたその地は、人口約1万8千人、沖縄本島の中部の西海岸に位置する読谷山(ゆんたんざん)村(現・読谷=よみたん=村)。爆撃に巻き込まれ、亡くなった村民たち。着の身着のまま逃げ回り、飢えにあえぎ、命を落とした村人たち。沖縄戦が終結して70年。彼らの足跡をたどった。
「沖縄を占領すれば、台湾、中国沿岸、日本本土のすべてが、B29爆撃機はもちろんのこと、中距離および重爆撃機の攻撃範囲に入り日本占領に王手がかかることになる。琉球は海に浮かぶ最後の砦なのだ」(1945年4月1日付、ニューヨーク・タイムズ)
米軍は、読谷に狙いを定めた。
【上空から見た読谷飛行場】(公文書館)
米軍、沖縄本島上陸
「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。
しかも1発も弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで」
「おまけにわれわれは、砂浜に座り込んで、七面鳥の羽をしゃぶったり、オレンジ・ジュースを飲んだりしたものだ。
それは、まるでピクニックのようなものであった」
(従軍記者アーニー・パイル)
読谷村出身者が故郷で命を落としたのは、4月に集中している。一家で運命を共にしたいと、読谷村内の防空壕やガマに残る村民もいた。米軍が上陸した4月1日だけで95人、2日の犠牲者は126人に上った。
一方で2日には、米軍によって、村内の海岸線の都屋、楚辺に臨時の住民収容所が設けられた。以降、村内の犠牲者は3日に32人、4日に3人となり、減少していった。
避難したガマによっても運命が分かれた。チビチリガマでは「集団自決」(強制集団死)で多くの犠牲者が出た一方、シムクガマではほぼ全員が助かった。それぞれのガマの生存者に証言してもらった。
5月と6月には読谷村内での死者はほとんどいない。一方、北部での戦没者が増え、5月は141人に上った。食料が底を突き、避難生活を続ける住民は、飢えと闘いながら山中をさまよったことがうかがえる。
米軍進撃ラインの首里、西原近辺でも戦没者が確認できる。4月22日には日本軍の司令部があった首里攻防戦に突入。日本軍が首里撤退を決定する5月22日まで激戦が続き、読谷村出身の軍属や防衛隊員が巻き込まれた。
米軍は6月7日に那覇市の南部にある小禄の中心部まで進出、次々と手中に収めた。6月には397人にも上る軍属が戦死していることが分かる。
7月には、国頭村、大宜味村、東村などの北部で主に住民が129人亡くなっている。そのうち84人が栄養失調だった。山中をさまよい、7月になっても爆撃によって亡くなった人もいる。米軍による敗残兵の掃討に巻き込まれた可能性もある。ほかにも、読谷村近くの金武や宜野座、石川の収容所でも亡くなっている。こちらも病死、栄養失調が多い。
読谷村では、遠方への避難を渋る村民も多かった。自宅などの身近な場所に防空壕を掘り、ガマなどへ避難していたが、空襲や艦砲射撃を目の当たりにして、一挙に北部へと向かうことになった。本島在住の村民のうち、村に残った人は約25%、国頭方面への避難者は約39%だった。
地元を離れ、山中をさまよい、亡くなった村民たちの足跡を追った。
病気やけがをした住民。沖縄侵攻後、軍政府が楚辺に設置した病院にて。
栄養失調の子供の体を拭く母親。1945年4月4日(公文書館)
国頭に避難した村民5429人のうち、捕虜になった人は2844人と多くはない。つまり、収容所での死亡は少なく、大部分が山中で避難生活中に死亡したとみられる。ここでは、718人もの人が爆撃や栄養失調、マラリアなどで亡くなった。
国頭方面での捕虜は、6月が最も多く517人、7月が496人、8月になっても134人と続き、依然として多くの人が避難生活を続けていた。読谷村を出てから2~5カ月にもおよぶ長期の山中での避難生活が、栄養失調やマラリアによる死者を多く出した原因でもある。
米軍の沖縄本島最初の上陸地となった読谷村。一方で、米軍が南進し、追い詰められていった本島南部の具志頭村。それぞれの村民の足取りはどう違ったのか。GIS沖縄研究室が行った戦没者時空間分析を沖縄国際大学の吉浜忍教授が検証した。
日本軍の攻撃に、米軍は雨のような砲火を浴びせ応戦した=1945年4月、読谷飛行場
- 米軍が上陸した4月、読谷は、空と海からの攻撃で、村内で死者が集中している。これが上陸地点のパターン。村への攻撃が終わった4月初旬以降、読谷村は“戦後”になった。
- 一方、具志頭は北部への避難が難しかった。3月から艦砲射撃が始まったことに加え、避難先のヤンバルも遠く、見知らぬ土地での生活を不安に思ったことも想像できる。米軍は上陸後に南進し、具志頭は6月まで戦場となる。
- 5月と6月は、読谷と具志頭の両方で、戦線の動きと戦没地が重なる。5月は首里、シュガーローフヒル、運玉森に戦没者が固まっていることから、兵士、防衛隊、学徒隊とみられる。
- 7月、具志頭村で米軍に保護された住民は、玉城村の知念(百名)収容所と宜野座方面の収容所に連れて行かれ、栄養失調などで亡くなっている。 読谷村は、疎開をした人たちと、山の中を逃げ回って生き残って米軍に保護された住民の2つの動きが収容所に集まったことで重なった。指定疎開地の大宜味村周辺は、戦闘よりも栄養失調やマラリアで亡くなる人が多かった。他にも田井等、宜野座、石川と分散して収容された。
- 男性の戦没者は、兵士、学徒隊が圧倒的。読谷村出身者は、複数の部隊に配属され、伊江島や首里近辺で確認される。日本軍89連隊に駆り出された具志頭村出身者の戦没者は、激戦地だった運玉森周辺に集中している。
- 家族に老人や病気の人がいたり、多くの財産のある世帯は、なかなか地元を離れず、周辺をさまよったと推測される。
地図に落とし込んだ一点一点は、生きたくても生きられなかった人たちの命であり、最後の証言でもある。
そして、住民が壕で、山で、収容所で命を落としていた間に、故郷は接収され、米軍が物資を陸揚げする拠点となった。戦後は95%が占領地となった。
2015年現在、読谷村各地には慰霊碑が建つ。命の尊さを噛み締め、平和を祈る参拝者が、今も訪れている。
読谷村渡具知の「米軍上陸の地の碑」には、こう刻まれている。
この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念する
- 参考文献:
- 「楚辺誌『戦争編』」、読谷バーチャル平和資料館、読谷村史第五巻資料編4『戦時記録上巻』、読谷村史第五巻資料編4『戦時記録下巻』、国頭村史、「総史沖縄戦―写真記録」(岩波書店)、「沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い」(Mugen)、沖縄戦場(http://www.okinawa-senjoh.com/)
- 取材協力:
- 読谷村史編纂室・豊田純志さん、沖縄国際大学・吉浜忍教授、沖縄県公文書館、上原豊子さん、知花治雄さん、那覇市歴史博物館