沖縄戦から続く負の連鎖
「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」―。
写真家・東松照明が1969年に発刊した写真集のタイトルである。
沖縄の戦後は米軍基地の存在を抜きに語れない。
旧日本軍が住民の土地を接収して造った飛行場などの軍事施設は、敗戦後、米軍基地となった。そしてベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争では攻撃の拠点となった。
沖縄もまた米軍駐留による被害を受け続けてきた。それは沖縄県民の抵抗と闘いの歴史でもある。
第4章では、沖縄タイムス所蔵の写真と新聞記事で沖縄の戦後を振り返るとともに、米軍基地が返還された地域の繁栄ぶりと、いまだ返還されない地域の過去と現在を比較した。
サンフランシスコ講和条約が発効。見出しは「新生日本の門出」と祝福しているが、社説では取り残された県民の複雑な思いをつづっている。
米軍用地料の一括払いを促す「プライス勧告」に反対する「四原則貫徹住民大会」が開かれた。約15万人が結集した。党派を超えた闘いは、後に数多く開かれることになる県民大会の源流ともいえる。
石川市(現・うるま市)の宮森小学校にF100戦闘機が墜落。児童や住民18人が死亡、210人が負傷する大惨事に。1面全体を写真で埋める異例のレイアウト。見出しからも衝撃の大きさが伝わる。
沖縄県民相手に米兵が死亡事故を起こしても無罪になるなど、県民の人権が抑圧され続けていた中で、住民感情が爆発。コザの目抜き通りで米軍車両だけを選んで、次々と火をつけた。建物に延焼しないよう車は道路中央に寄せ、差別されていた黒人には手を出さないなど統制が取れていたことから、「暴動」ではなく「騒動」と呼ばれる
1945年の終戦から27年、米国の統治が終わり、沖縄はようやく日本に復帰した。しかし米軍基地は存続され、「本土並み」といった県民の願いはかなわなかった。東京の日本武道館の記念式典ではバンザイが、那覇ではどしゃぶりの雨の中で抗議のデモが繰り広げられた。沖縄タイムスは日本国憲法の全文を掲載した。
極東最大の米空軍基地・嘉手納基地を人間の鎖で初めて包囲した。激しい雨の中、2万5千人が反戦平和をアピール。米軍基地の完全包囲は世界初と報道された。
9月4日に起きた米兵による暴行事件を糾弾し、日米地位協定見直しを要求する県民総決起大会が開かれた。事件に対する怒りは全県に広がり、復帰後最大規模の8万5千人(主催者発表)が参加。米軍基地の整理縮小や日米地位協定の見直しを求めた。
読谷村にある米軍楚辺通信所の土地使用期限が切れ、国による「不法占拠」という異常事態が起こった。一人の地主の契約拒否が安保体制を揺り動かした。
米軍普天間飛行場の返還で日米が合意した。しかし、代替施設の移設先などをめぐり交渉が難航したほか、住民らの反対運動もあり、当初の想定だった「5-7年内」どころか、20年の年月がたとうとしている。
宜野湾市の沖縄国際大学に米軍普天間飛行場所属のヘリが墜落、炎上した。現場は米軍によって封鎖され、消防や警察でさえ手を出せないという状況下で、沖縄タイムスは総動員で事故を詳報した。
沖縄県内41市町村長が普天間の県内移設断念を求め、東京で抗議行動を展開。沖縄タイムスは1面とテレビ面をつなげる形で大きな見出しと写真で報じた。デモ行進中、沿道の集団から「売国奴」「琉球人は日本から出て行け」などとヘイトスピーチを浴びせられる場面もあった。
「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇で開かれ、35000人(主催者発表)が参加した。沖縄タイムスは主要記事を英文でも掲載し、世界に向けて発信した。
写真で見る米軍基地の今と昔
沖縄戦から70年、変わったものと変わらないものがある。
米軍統治下の時代から、沖縄は基地の過重な負担を背負わされ続けてきた。日本復帰後も米軍専用施設の74%が集中する構図は変わらない。
その一方で、基地返還跡地の中には商業地として生まれ変わり、目覚ましい発展を遂げている街もある。写真で「基地の島」の過去と現在を見る。
沖縄が決める未来、アジア結ぶ平和の島へ
2001年9月11日の米同時多発テロは、沖縄観光に深刻な影響を与えた。米軍基地が集中する沖縄は危険だから、と県外からの修学旅行などキャンセルが相次いだ。
沖縄県は1972年の祖国復帰を経て、国内外から観光客が訪れる一大観光地となり、アジア物流のハブとしても成長を続けている。
基地が返還された跡地は、那覇市の新都心や北谷町のハンビー、北中城村のライカム地区など目覚ましい発展を遂げてきた。
中国の海洋進出など軍事的台頭が懸念される中、沖縄への過度な米軍基地の集中が安全保障上のリスクとなっていることは、米側も承知している。
戦後70年。
沖縄は、万国津梁の精神を祖先から受け継ぎ、平和の緩衝地帯として、世界の懸け橋になることを希求している。