大久保寛司の輝く経営未来塾2016
第3回講演レポート

被災地を〝支縁〟宝塚流

歌と踊りでケア・防災教育

大久保寛司の輝く経営未来塾2016(主催・沖縄タイムス社)の第3回講演会が9月7日、那覇市久茂地のタイムスホールで開かれた。東北の支援に取り組む一般社団法人「change(チェンジ)」代表理事で元タカラジェンヌの妃乃(ひの)あんじ氏が「華やかな宝塚の世界から被災地復興支援へ」と題して講演。歌と踊りを通じて子どもたちの精神的ケアと防災教育に取り組んでいることや、ヒマワリ畑を復活させようとボランティアツアーを組んだことなどに触れ、「私の活動は人々とのご縁あってこその『支縁』。被災地の方々を笑顔に変えていきたい」と語った。

PICRH20160907_000547.jpg一般社団法人「change」代表理事
妃乃あんじ氏
 沖縄で宝塚歌劇団は少し縁遠いかもしれないが、私の同期生にも沖縄出身の方がいる。私は高校2年生で音楽学校に合格した89期生。2年間訓練を受けた後、月組の娘役として舞台に9年間立っていた。宝塚歌劇団には花、月、雪、星、宙(そら)の5組がある。メンバーはそれぞれ90人弱くらい。
 阪急阪神東宝グループが始めたエンターテインメント事業で、ことし設立102年。阪急電鉄の社是を覚えなさいと言われたことはない。歌劇団生としての精神や規則は全部、宝塚音楽学校の予科生(1年生)の時に上級生から厳しくたたき込まれる。「予科生は地獄、本科生は天国」という言葉があるくらい。自衛隊の人に「自分たちより厳しい」とお墨付きをもらってしまった時には驚いた。
 音楽学校の同期生みんなで立つ最初で最後の公演がラインダンス。1カ月半という短い期間のお稽古で一糸乱れず踊れるのは、学校生活での2年間、お互いを支え合って学んできたから。この舞台に立つために自分たちは頑張ってきたんだと思った。今でも誇れる。
 憧れの上級生が私たちには常にいた。「あそこは良かったよ」「もっとこうしたら」と目を配ってくれる上級生も必ずいた。振り返ってみて、宝塚では多くのことを学ばせていただいたと思う。
 そんな華やかな宝塚の舞台から、なぜ被災地なのか。
 舞台に立って7年目。母親が「末期の一歩手前の胃がん」と診断され、1日2公演をこなしながら大阪の実家で看病することになった。
 2011年2月に母を亡くし、その11日後、あの東日本大震災が起きた。大阪からテレビで見ていて正直、「どうして大阪で起きなかったんだろう。私は今にでも母に会いたい」と思った。ボランティアに行こうという気持ちなんて全くなかった。
 10月に退団してからは、外出もせず毎日泣きながら暮らしていたが、ふと思った。私と同じように悲しんでいる人、私以上に苦しんでいる人がいるはず。少しでも前に進みたい。そんな思いで宮城県の南三陸町に出掛けた。
 それから2年3カ月。月の半分は個人として現地に通い、がれき撤去や漁業支援、遺体捜索をした。初めて自分で企画したのは学生向けのボランティアツアーだった。現地の人は「こんな子がいる日本は捨てたもんじゃねぇ」と言ってくれた。宝塚時代のファンや元トップスターも加わり、これまでのツアー計7回で230人が参加してくれた。
 避難所で三線を練習した子どもたちのために発表の場を設けたり、「フラダンスを踊ってみてぇ」というお年寄りの声を聞いて仮設住宅の集会場でフラダンス教室を開いたりした。フラダンスは音楽学校で習わなかったから、大阪の教室に通って、習ったそばから教えに行く状態だった。
 「宝塚上がりのお嬢さんに何が分かる! すぐ出てけ!」と漁師のお父さんに怒鳴られたことが忘れられない。冷やかしに来るなという意味だったんだと思う。怒鳴られてから2年。集会所でのフラダンス教室の初回に来てくれたのが、そのお父さん。「おらに似合うスカートどれだ?」「お好きな色は何ですか?」。初めて会話ができた。
 個人としての活動に限界を感じて一般社団法人「change」を立ち上げたのが14年2月。宝塚での経験を生かそうと「なりきりプログラム」を思い付いた。被災地の子どもたちは住まいも仕事もないという親の不安を敏感に感じ取っていて、4人に1人は精神的なケアが必要な状態だった。
 プログラムは全員参加型のミュージカル。映像と音楽で童話の世界に引き込む。子どもたちの想像力、考える力、表現力を引き出す。「3匹の子ぶた」では、オオカミが家を揺らす映像が流れたらみんな一斉に頭巾で頭を守る。守れる命を守るための防災教育だ。
 振り返ると宝塚にいた9年間、お客さんの拍手に感動していた。今は、被災地でご縁を頂いた方々の笑顔に感動している。たくさんの人が笑顔にチェンジできるように、私なりの「支縁」を続けていきたい。

いい生き方 社会変える

PICRH20160915_000995.jpg人と経営研究所所長
大久保寛司氏
 (1)どんな言葉を使っているか(2)どんな表情をしているか(3)どんな姿勢をしているか-の3点で人を見ると、すごく面白い。前向きな言葉を使う人、表情の明るい人、背筋の伸びている人の横にいると心地いい。私は、組織そのものを変えようとは言わない。半径1メートル、半径50センチの距離にいる人を少しでもプラスにできればいい。
 人を信じるときに大事なのは、その人の奥にいいものがあると信じることだ。いい人にたくさん会うと、自分の中からいいものが出てくる。逆に、悪い人にたくさん会うと、自分の中から悪いものが出てくる。いいものと悪いもの、どちらを多く出すかがその人を決める。性善説でも性悪説でもない。
 人は変われる。素晴らしい生き方をしている人に一人でも多くの人が触れることが、いい社会につながる。私はそう思ってセミナーをしている。
 妃乃氏は、被災地の子どもたち一人一人をきっちり励まして、心に届くメッセージを送っている。どこでそのセンスを身に付けたのかと思う。この接し方だからこそ現地で受け入れられ、復興応援大使にも選ばれたのだと思う。
 昨年7月にお会いした時、宝塚歌劇団時代にためたお金で被災地支援をなさっていて、もう少しで底を突くとのことだった。子どもたちと歌や踊りで触れ合う「なりきりプログラム」を現地でやるにも、宝塚のOGを呼ぶのに交通費くらいは最低必要。行政からの予算があっても1公演で20万円近く持ち出しが出る中、1人でやり続けているという事実にがくぜんとした。
 そこで、大人向け・企業向けのプログラムを始めることで、一定のお金が入るビジネスモデルを一緒に作った。歌や踊りはチームワークを育てる。人間性を解放する。大人にとっても必要なことだ。

フロア質疑
売名と非難 悔しい思いも 思いを継続する団体設立

フロア 自分は本当に頑張ったなあと思えた瞬間は。
妃乃氏 宝塚での毎日がその連続だった。被災地での経験を言うと、お金がなくて車中泊をしていた時。気温がマイナス10度を下回るから、まつげも歯ブラシも凍ってしまった。
フロア 宝塚歌劇団を目指したきっかけは。
妃乃氏 父から土下座でお願いされた。父は宝塚を見たこともない人。実は「娘が宝塚だと居酒屋でモテるから」という理由だったと後で知った。この話は冗談だと受け止めてもらえたらと思う。
フロア 被災地でのボランティアを途中でやめようと思ったことは。
妃乃氏 売名行為だと言われて悔しかったこともある。でも、人とのご縁を頂いて今がある。
フロア 支援活動をしようという気持ちをどう維持しているのか。
妃乃氏 宝塚の舞台では、お客さんから拍手をもらって感動した。今は、被災地の子どもたちの表情が笑顔に変わることに感動をもらっている。どんなにお金やモノがなくても、たった一つの感動を生きがい、やりがいに思っている。
フロア 復興支援の一般社団法人を立ち上げようという素地は誰ゆずりか。
妃乃氏 誰かに憧れたわけではない。ただ「今これが足りない」「私は今これならできる」と今だけを考えてやってきた。お金が底を突いて、思いだけでは駄目なんだと勉強しているところ。
フロア 被災地の子どもたちと向き合う時に大切にしていることは。
妃乃氏 その子が持っている感情を引き出すこと。オオカミの映像を見て泣きだす子も、やっつけようとする子もいる。「そっかそっか、そう感じたんだね」と言われることの積み重ねが、その子の自信につながると思う。
大久保氏 妃乃氏は、子どもたち本人の心に届くメッセージを送っている。どこでそのセンスを身に付けたのか。
妃乃氏 被災地に通うようになって「自分はここがきつい」「自分はここが弱い」と口に出して人様に言えるようになった。そうすることで手とり足とり教えてもらえるようになって、成長させてもらっている。宝塚時代は、みんな仲良しだが同時にライバル。つらさは抱え込んでいた。
フロア 周囲と信頼関係を築く鍵は。
大久保氏 宝塚では圧力がかかる中で築き上げられるが、一般の会社組織では一緒に遊んでいつもと違う会話をすることだ